HRWが論説を公表した経緯
国際人権NGOのヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)は、2026年10月24日午後4時(米東部時間)付で、日本の売春防止法見直しをめぐる論説「日本政府はセックスワーカーたちを処罰すべきではない」(副題「売春防止法の見直しは安全を優先に」)を公式サイトで公表した。
同じ論説は、英字メディアNikkei Asiaにも「Japan should stop punishing sex workers」の題で、日本時間10月25日午前5時5分付で掲載されている。HRWの英語版ページにも「Published in: Nikkei Asia」と明記されており、日本語版・英語版のほか中国語(簡体字・繁体字)版も公開されている。
執筆者は次の2人である。
| 執筆者 | HRWでの肩書 |
|---|---|
| 笠井哲平(Teppei Kasai) | アジア局 シニア・プログラム・オフィサー |
| Stacey-Leigh Manuel | 女性の権利局 副局長 |
日本で売春防止法の刑事規制が見直されようとしているこのタイミングで、国際的な人権団体が「買う側を罰する」方向そのものに異議を唱えた点が、今回の論説の特徴である。
見直し議論はどこまで進んでいるか
論説が前提としている国内の動きを整理しておく。
- 高市早苗首相は2025年11月、「売春の相手方に対する処罰の必要性」の検討を指示した(HRW日本語版は、法務大臣への指示と記している)
- これを受けて法務省は有識者会議「売買春に係る規制の在り方検討会」を設置した
- 同検討会は2026年9月17日の会合で報告書を決定した。報告書は、現行法で罰則がない「買う側」の勧誘行為などを新たに処罰対象とする方向を示す一方、売春行為そのものの処罰化は「慎重な検討が必要」として見送った(当サイト9月18日の記事で詳報)
- 法務省は報告書を踏まえ、秋の臨時国会への改正案提出を視野に検討していると報じられてきた
HRWの論説は、報告書について「売春の相手方となる者による勧誘等を処罰対象」とする点に「委員から異論は見られなかった」一方、刑罰の導入までは踏み込まなかった、と整理している。なお本稿執筆時点で、改正案の国会提出を伝える報道は確認できていない。
論説の主張:「不公平の本質は売る側を罰していること」
現行の売春防止法(1956年制定)は、公共の場所での勧誘や客待ちなどを「6月以下の拘禁刑又は2万円以下の罰金」で処罰している。論説は、警察が毎年「売春の相手方」を勧誘した人々を逮捕している一方、買う側による勧誘は処罰されていないことを指摘し、この状態を多くの人が「不均衡」と呼んでいると紹介する。
そのうえでHRWは、この不均衡を買う側にも罰則を広げることで解消するのは誤りだと主張する。論説の中心となる一文は次のとおりである。
不公平の本質は、クライアントを処罰しないことではなく、セックスワーカー側を処罰していることにある。
「北欧モデル」への反論
買う側だけを処罰し売る側は罰しない制度は「北欧モデル」(エンド・デマンド型)と呼ばれ、1999年にスウェーデンが初めて導入した。日本でも複数の有識者が提唱している。HRWはこのモデルについて、次のような弊害を挙げている。
- 摘発を恐れる客が、夜の公園や車内、見知らぬアパートなど人目につかない場所を選ぶようになる
- ワーカーが事前に客を確かめたり、客の情報を友人に伝えたりすることが難しくなる
- コンドームを使わない性交など、より危険な行為を求められやすくなる
具体例として論説が挙げるのはフランスである。同国では2016年に買う側への罰則が導入されたが、NGO「世界の医療団」の調査によれば、その後セックスワーカーはより危険な場所での仕事を余儀なくされ、6か月間に10人のセックスワーカーが殺害されたという。
論説はさらに、買う側だけを罰する制度でも、周辺の協力者を処罰する規定は残ると指摘する。2人でアパートを共有すれば「場所提供」に問われうる、客の電話番号を伝えた友人や車で送った人が「周旋」に問われうる、家主が退去を迫る口実を得る――といった例である。
HRWの提言
論説が日本政府に求めている内容は次のとおり。
- 売春防止法を廃止し、買う行為も含めて成人間の合意に基づくセックスワークを全面的に非犯罪化する
- ワーカー同士が安全を守り合うような、搾取を伴わない協力関係を犯罪としない
- 人身取引、強制労働、債務による拘束、暴力、子どもの性的搾取は他の法律で引き続き禁止し、廃止で空白が生じる場合は埋める
- 警察はレイプや暴行、強要の被害申告を速やかに捜査し、セックスワークを理由に被害者を処罰しない
- 医療・住まい・公的給付などを差別なく利用できるようにし、その条件に「セックスワークをやめること」を課さない
- 法改正の検討・立案に、当事者やワーカー主体の団体を実質的に参加させる
国連の「女性と少女に対する差別に関する作業部会」も、成人の自発的なセックスワークの完全な非犯罪化を求めていることを、論説は根拠の一つとして挙げている。HRWは9月24日付の別の記事「なぜセックスワークを非犯罪化すべきか」でも同様の立場を示しており、今回の論説は日本の立法論議に向けてそれを具体化したものといえる。
3つの立場の違い
今回の論説で、日本の議論に並ぶ選択肢がはっきりした。
| 立場 | 売る側の勧誘 | 買う側の勧誘 | 主な論拠 |
|---|---|---|---|
| 現行の売春防止法 | 処罰 | 罰則なし | 「社会の善良の風俗」の維持 |
| 法務省検討会の報告書 | 存置 | 処罰対象に追加 | 処罰の不均衡の是正 |
| HRWの論説 | 非犯罪化 | 非犯罪化 | 当事者の安全と人権 |
検討会の報告書と、各紙の社説(当サイト9月23日の記事参照)は、買う側の処罰化を不均衡の是正として一定評価しつつ、性売買の「地下化」を懸念していた。HRWの論説は、まさにその地下化の懸念を突き詰め、「だから売る側・買う側どちらも罰すべきではない」という結論に至っている。出発点の問題意識は共有しながら、処方箋が正反対に分かれている構図である。
背景
売春防止法は制定から70年を迎えたが、勧誘等罪を中心とする刑事規制の部分はほぼ制定時のまま残ってきた。今回の見直しは、路上での客待ちの可視化、悪質ホストクラブによる売掛金を通じた性風俗・売春への誘導、人身取引対策といった複数の流れが重なって動き出したものである。
国際的には、売る側も買う側も罰しない「非犯罪化」(ニュージーランドなどが採用)、買う側だけを罰する「北欧モデル」、全面的な禁止など、制度設計は国ごとに大きく異なり、どれが当事者の安全に資するかの評価は分かれている。HRWの主張は国際人権団体や一部の公衆衛生分野で支持がある一方、北欧モデルを支持する立場からは「買春需要を減らすことが搾取の抑止につながる」との反論も根強い。
日本の検討会が売春行為そのものの処罰化を見送った理由も、当事者が処罰を恐れて支援につながれなくなることや、地下化で立場がかえって弱くなることへの懸念だった。HRWの論説は、その懸念を「買う側の勧誘処罰」にまで広げて適用すべきだと迫るものといえる。法務省が改正案の具体的な構成要件をまとめる段階で、こうした国際的な議論がどこまで反映されるかが今後の焦点になる。
本記事はヒューマン・ライツ・ウォッチ(日本語版・英語版)が公表した論説、Nikkei Asiaの掲載記事、および法務省「売買春に係る規制の在り方検討会」報告書に関する共同通信・時事通信・毎日新聞等の報道をもとに構成しています。